量子情報通信

[履歴■QIC001■QIC002■QIC003■QIC004■QIC005■QIC006■QIC007■QIC008■QIC009■QIC010■QIC011■QIC012■QIC018■QIC019■QIC020■QIC021]

[QIC019:シュレーディンガーの猫状態の生成]                (2008/01/18:渚 博)

 NICT量子情報通信プロジェクトのトピックスによると、量子力学の有名なパラドックス「シュレーディンガーの猫」に相当する光の状態をこれまでで最も高い純度で生成することに成功。この成果によって、量子力学と古典力学の境界領域の詳細な研究が可能になるほか、実際の光通信で使われる多くの光子を含む光信号に直接、量子処理を施す究極の情報通信技術に道が開かれるということです。
[出典](http://www2.nict.go.jp/w/w113/qit/topics/topics001.html

シュレーディンガーの猫状態の生成に成功
〜量子力学のパラドックスが新しい情報通信の鍵に〜

【背景】
 原子スケールの現象を支配している量子力学の法則を日常スケールに拡張できたとすると、例えば「1 匹の猫が生きている状態と死んでいる状態の両方の状態に同時にある重ね合わせ状態」が実現できます。しかし、このような状態は日常では見られないため、量子力学のパラドックス(提唱者にちなんでシュレーディンガーの猫のパラドックス)として長年、論争が続けられてきました。猫ほど極端でなくとも、原子スケールより大きな物理系で重ね合わせ状態(をシュレーディンガーの猫状態、以下、猫状態)を生成することは、量子物理学の大きな目標です。特に、伝搬する光信号で猫状態が生成できると、情報通信技術に大きな革新がもたらされます。2006 年になって、フランスの国立科学研究センター(チャールズ・ファブリ研究所)のグループとデンマークのニールス・ボーア研究所のグループがそれぞれ伝搬する猫状態の生成について報告しました。しかし、猫状態の品質を表す「非古典性」と呼ばれる量子効果の度合いがまだ低く、わずかな損失で非古典性が消えてしまうため、量子力学の検証や新しい情報通信技術へ応用する上で困難な点がありました。

【本研究成果の概要】
 今回、我々共同研究チームは、フランス国立科学研究センターのグループが達成していた非古典性の記録を2 倍以上に増強し、これまでで最も大きな非古典性を観測することに成功して、量子力学の検証や量子情報通信技術への適用に道を開きました。大きな非古典性を実現できた鍵は、猫状態の種として使うスクィーズド状態を極めて高い純度で生成する技術を開発できたことです。周期的分極反転構造を持つポタシウムティタニルフォスフォレート(KTiOPO4)という結晶(PPKTP 結晶)を用いることで、光損失と雑音がほとんどないスクィーズド光源を作ことが可能となりました。このスクィーズド光源と光子検出器を組み合わせることで、世界最高品質の猫状態を生成できます。

  ここで、生きた猫と死んだ猫に相当するのは、互いに位相が180 度ずれた2つの異なる光の状態です。単一光子状態よりはるかに多くの光子を含んでいるため、量子力学から古典力学へ移行する境界領域の詳細な研究を行えるほか、実際の光通信で使われる多くの光子を含んだ信号に直接、量子信号処理を施す技術にも繋がります。逆に、PPKTP 結晶を励起する光の強度を弱めることによって、純度が高く干渉性に極めて優れた単一光子状態を生成することもできます。今回の成果によって量子情報通信の研究に必要な光の量子状態の基本要素がそろったことになり、今後の研究を大きく前進させるものと期待されます。この成果はカナダ、トロントで開催されている量子情報及び量子制御に関する国際会議(CQIQC2006)において8 月11 日に発表されます。

【今後の展開】
 猫状態の光強度が強くなるほど、量子効果が顕著に現れるため、今後、さらに大きな猫状態が生成できるよう装置の改善を進めてゆきます。猫状態を成長させる技術のことを研究者の間では「量子飼育技術」と呼んでいます。その最も重要な要素は、スクィーズド状態の光子数を正確に識別する技術(光子数識別技術)です。識別できる光子数が大きくなるほど、生成できる猫状態のサイズは大きくなります。最終的には、現在の光通信ネットワークを行きかっているレーザー光の状態(コヒーレント状態)に対して、重ね合わせ状態を自在に生成・制御するのが目標です。これが実現できると、現在の光通信ネットワークの中継点や受信端にこの技術を導入することで、従来の通信容量限界(シャノン限界)を超えることが可能となります。これまでの量子情報通信の研究では、単一光子や光子対が主に使われていますが、これらの状態はコヒーレント状態とは大きく異なり、特殊な環境のもとでしか使えません。今回の成果は、現在の光通信ネットワークを最も自然な形で進化させる技術形態を与えるものと期待しています。なお、本研究は科学技術振興機構CREST プロジェクトの支援も受けて実施されています。

【 用語解説 】
1 シュレーディンガーの猫のパラドックス
 オーストラリアの理論物理学者シュレーディンガー(1887-1961、下図の左の写真)が、アインシュタイン(1879-1955、下図の右の写真)と書簡による議論の末に1935 年に発表した思考実験モデルで、量子力学がいかに不条理なものかを説明する例です。箱の中に、一匹の猫と、放射性原子の崩壊によって壊れる毒ガス入りのビンが入っています。放射性原子の崩壊は量子力学の重ね合わせの原理に支配されており、いつ壊れるか分かりません。また、箱の窓を明けて観測するまでどういう状態にあるかも分かりません。つまり、生きている猫と死んでいる猫が同時に存在している状態になっています。そのような状態では、観測した際の生死も予測することが不可能です。このような状態は日常目にしませんが、では、一体、どの程度のサイズの物理系までこのような重ね合わせ状態が可能かという根本的な問題が出てきます。この問題の検証は、基礎科学上、重要であるほか、従来にはない性能の情報通信の実現に繋がると期待されています。

2 スクィーズド状態
 レーザー光は位相のそろった最もきれいな波の状態ですが、ある時間の1点における波の振幅の値を完全な精度で決めることは不可能で、必ずある「ぼやけ」すなわち揺らぎを伴います。この揺らぎは量子力学の不確定性原理に起因しており、量子揺らぎと呼ばれ、完全に消し去ることは原理的に不可能です。しかし、ある位相の領域(時間間隔)で量子揺らぎを抑圧することは可能です。そのかわり、別の位相(正確には90 度ずれた位相)の揺らぎは逆に大きくなってしまいます。このように量子揺らぎを人為的に制御した光の状態がスクィーズド状態です。


[補足資料]

@ シュレーディンガーの猫状態を生成するための実験配置の概念図
 図1に示すように、まずスクィーズド状態を生成してから、そのビームを反射率5%のビームスプリッタでわずかに分岐してやって、光子検出器へ導波します。光子が検出されたときだけ、信号光のゲートを開けてやると、そこに伝播するシュレーディンガーの猫状態が生成されます。スクィーズド状態を2つに分岐すると、実はビーム間に量子もつれという特殊な相関が形成されます。この量子もつれがあると、空間的に離れていても、一方のビームにある操作を施すと、もう一方のビームの状態がそれに応じて変化します。光子検出過程は、それ自体が強い非線形操作であるため、もう一方の信号光にも強い非線形変換が引き起こされ、シュレーディンガーの猫状態が生成されます。一方、通常のレーザー光のコヒーレント状態をいくら分岐しても量子もつれは形成されず、このようなことは決して起こりません。

 今回の実験では光パラメトリック共振器を連続波励起した波長860nm 帯のスクィーズド状態を用いています。光子検出器には、市販のシリコン雪崩増幅型検出器を用いています。一方、シュレーディンガーの猫状態は、ホモダイントモグラフィという量子的な断層撮影法によって評価します。その出力はウィグナー関数と呼ばれる分布に相当し、スクィーズド状態は扁平な非負のガウス分布となり、シュレーディンガーの猫状態では、生きた猫と死んだ猫に相当する左右に離れた2つのピーク成分と真ん中の負の値のくぼみを持っています。この負の値が深いほど、量子効果を表す非古典性が強いことを意味します。


A 実験データ
 図2にシュレーディンガーの猫状態のウィグナー関数の比較を示します。(a)はこれまでに発表された中で最も深い負のくぼみ(非古典性)を実現したフランスの国立科学研究センター(チャールズ・ファブリ研究所)のグループの実験データ、(b)が今回我々のチームで得た実験データになります。負のくぼみ(非古典性)が2 倍以上に深くなる一方、2 つのピークから連なる上部の淵もあまり下がっておらず、猫状態の純度が大きく改善されたことを示しています。

   (a)フランスの国立科学研究センターの実験データ         (b)今回の実験データ。

  図2  シュレーディンガーの猫状態のウィグナー関数の比較

[履歴■QIC001■QIC002■QIC003■QIC004■QIC005■QIC006■QIC007■QIC008■QIC009■QIC010■QIC011■QIC012■QIC018■QIC019■QIC020■QIC021]