[QIC010:超加法的量子符号化利得] (2003/09/26:渚 博)
通信総合研究所量子情報技術グループのトピックス記事によると、大容量通信の新しい原理として期待される超加法的量子符号化利得を世界で初めて実証したとのことです。これは伝送に使う搬送波の信号パワーや帯域を2倍に増やした時に、伝送できる情報量が2倍以上に増えるという量子通信路符号化の基本原理を実証したことを意味します。量子通信の先端技術の一つとして参考になると考えますのでご紹介します。
現在の情報技術は、0と1という2つの数字による抽象化の上に成り立っています。実際、パソコンやインターネットの中を駆け巡っている情報の実体は、0と1を運ぶ電気や光の膨大なパルス列です。音声や画像を0と1という抽象的記号で表現することで、効率的なデータの圧縮や雑音下での信頼性の確保が可能になります。
いわゆる符号化といわれる操作ですが、それは大きく分けると、データを{0,1}のビット列で圧縮して表現するための情報源符号化(Source coding)と、そのビット列をできるだけ小さい誤りで伝送するための通信路符号化(Channel coding)の2つに大別されます。この2つの操作を基本要素として情報伝送の基本模型は下図のようなダイヤグラムで整理されます。
情報源から次々と出てくるアルファベット(ここでは
1,
2,
3, …)はまず、情報源符号化器によって0,
1の記号系列に変換されます(Compressionの部分)。伝送速度を向上させるためには符号語はできるだけ短いことが望ましいわけです。例えば、出現頻度が高いアルファベットほど短い符号語で表現することで全体としての平均符号長を節約できます。つまり、出現頻度の偏りは冗長性を意味し、その分、圧縮した表現が可能なわけです。
次に、情報源符号器の出力は、通信路符号器によって通信路の物理的特性に適合した媒体に再度符号化されます(Codingの部分)。通信路は、光ファイバや電話線であったりコンピュータ内部の半導体メモリであったりするわけですが、こう言った媒体には常に雑音が存在し情報に歪みや誤りを生じさせます。
こういった雑音の効果を予想して、そこで起こりうる誤りを後で訂正できるよう符号語にさらに冗長な0, 1の文字系列を付加するわけです。通信路からの出力系列は、通信路復号器によって誤り訂正を行った後で情報源符号語に復元されます(Decodingの部分)。その後、情報源復号器で情報源符号器の逆変換を行ってアルファベットが復元されます(Decompressionの部分)。
こう言った一連の操作の効率と限界を定量化し、情報理論の基本的骨格を作り上げたのがC. E. Shannonで1948年のことです。このShannonの理論は非常に抽象的かつ一般的な数理体系で、量子効果を含めたときでも、かなりの部分はそのまま使えます。しかし、Shannonの理論は、まだ、情報の背後にある物理現象の完全な抽象化にはなっていませんでした。
例えば、非常に微弱な光信号から情報を取り出す必要のある深宇宙光通信や、一個一個の光子にあえて情報を載せる量子鍵配布といったような量子極限に置かれた物理系による情報伝送を扱うためには、情報理論は量子力学の言葉で抽象化されなければなりません。その具体的な表現がわかってきたのは90年代以降のごく最近のことであります。
量子情報通信では、上述のアルファベット
1,
2,
3, …は、いまや信号の量子状態を表す密度行列になります。このような領域では、それぞれの符号化操作において量子力学独特の効果が存在し、それを最適に使うことによって従来の理論限界を超えた操作を実現できます。
このような理論的予言を実験によって検証し、さらに新しい通信技術へ発展させようという研究は、実はまだほとんど手がつけられていないのが現状です。量子暗号や量子テレポーテーションの実験的研究が国内外で急速に進んでいるのとは対照的です。しかし、量子通信路符号化や量子情報源符号化は現在の光通信技術の自然な延長線上に量子情報技術を発展させて行く上で極めて重要なテーマです。
我々はこれまで量子符号化技術の基礎となる量子信号検出、そして量子通信路符号化の原理実証と段階的に取り組んできました。本格的な量子ゲートを使った符号操作はまだまだ先の話ですが、現在の技術を総動員して、量子符号化技術のエッセンスを何とか実証できないかと日々工夫を重ねてきました。最近、擬似的単一光子源と線形光学素子を組み合わせた量子回路を用いて、やっと最初の成果が出始めています。
(1)量子信号検出
レーザ光源の光パワーを減衰させて作る擬似的単一光子源と線形光学素子を組み合わせることで、量子レベルで動作する信号検出回路を開発してきました。これは量子符号化技術の原理実証を進める上で重要な要素技術になります。
(2)量子通信路符号化
上述の量子信号検出技術をもとに、超加法的量子符号化利得と呼ばれる量子通信路符号化の基本原理を実証することに成功しました。この原理は、伝送に使う搬送波の信号パワーや帯域を2倍に増やした時に、伝送できる情報量が2倍以上に増えるという原理です。
これは不確定性原理が支配する極限的状況(正確には、非可換性な信号量子状態
1,
2,
3, …を用いて情報を伝送する状況)で現れる量子力学的効果で、従来の情報理論の範疇ではありえない新しい効果です。
我々はこのような不確定性原理が支配する極限的状況を実現するために、完全に光を遮断した空間に光子を一個一個導いて、符号化を行う光回路を作りました。符号化は、光子の偏光面を120度の等間隔離れた角度で変調し、0,1,2の3値で行います。
このような3値の光子信号には、量子力学的不確定さが伴うため、光子が運んで来た信号が0,1,2のどれだったかを完全に識別することは、原理的に不可能になります。これを不確定性原理が支配する通信路のモデルとして使います。具体的には、図1に示すような互いに120度離れた単一光子の偏光面の量子状態 |
0>,|
1>,|
2> で表して伝送します。
|
0>は、光子の量子状態を表す記号です。

図1.単一光子の3元対称偏光信号|
0>,|
1>,|
2> 。
|0> と |1>は、それぞれ水平及び垂直偏光の状態。
これらの単一光子を使った3元対称偏光信号は、どんなに理想的な検出器を使っても、実は完全に識別することは不可能です。量子力学の不確定性原理のためです。もし、それぞれの偏光状態が非常に多くの光子からなる場合か、あるいは単一光子でも水平偏光と垂直偏光の2値(|0>,|1> )だけで変調する場合のみ、完全な識別が可能になります。
このように単一光子からなる3値信号は、不確定性原理が直接支配する通信路のモデルを提供するわけです。このような状況で超加法的量子符号化利得という効果が意味を持ってきます。
図2は3値符号化の図式です。もし、3値の偏光状態が多くの光子からなっていて完全な識別が可能であれば、1つの偏光信号あたりlog23 (=1.585)ビットの情報量を運ぶことができるのですが、単一光子の場合、不可避な識別誤りが伴うため、送れる情報量は1つの偏光信号あたり最大でも0.645ビットに制限されてしまいます。

図2. 単一光子の3元対称偏光信号を用いた符号化の
図式と最大伝送情報量。
次に、0,1,2を1個の光子ではなく、それぞれ|
0>
|
0>,|
1>
|
1>,|
2>
|
2>という2個の光子からなる3値の偏光量子状態に載せて運ぶ方法を考えます(図3)。
|
0>
|
0>は、水平に偏光した光子のパルスが2つ並んで飛んでいる状態を表します。このとき、1つの偏光光子対当り伝送される情報量の最大値をC2と書くことにすると、従来の古典情報理論では C2 =
2C1であり、伝送される情報量は最大でも2倍までしか増えません。
一方、量子情報理論によると伝送される情報量を2倍以上に増やす、つまり C2 > 2C1とすることが可能であると予言されています。この違いをもたらす要因は、信号を取り出す復号過程に量子力学の法則を取り込むか否かにあります。具体的には、量子状態から信号を取り出す過程で、量子もつれを形成させながら測定を行うことで、古典情報理論の確率法則を超えた復号操作が可能になります。
これは測定を行う前に光の量子状態のままで量子計算を実行することに相当します。0,1,2を運ぶ光子の数をさらに増やして、一般にn個にすると情報量は C2 = nC1とさらに増えてゆきますが、増加の比率は一定値
へ収束してゆきます。これが最終的な伝送限界、いわゆる通信路容量になります。古典情報理論では、通信路容量は
となります。

図3. 0,1,2を1個の光子ではなく、それぞれ|
0>
|
0>,|
1>
|
1>,|
2>
|
2>という2個の光子からなる3値の偏光量子状態で0,1,2を符号化する場合の、古典情報理論と量子情報理論での方式の比較。
さて、まずは最も簡単な超加法的量子符号化利得 C2 > 2C1 を検証したいわけです。そのためには、2つの光子の間で量子計算ができなければなりません。しかし、それは現在の技術では、まだ難しく実際的ではありません。そこで、我々は光子数を倍に増やす代わりに、光子の空間自由度を倍に増やすことを考えました。
通信資源は何も光子数だけではなく、空間帯域や周波数帯域も重要な通信資源になります。偏光とパルス位置の自由度を使った信号フォーマットを用いるわけです。そして、空間帯域を倍に増やしたときに、送れる情報量が倍以上に増えるか否かを確認することになります。そうすると必要な符号化・復号化回路は比較的簡単な光学素子で構成できることになります。実際には、図4に示すような偏光干渉系と光子検出器から構成されます。

図4. 偏光-パルス位置変調符号に対する符号化・復号化回路の概念図。
実際の回路構成を図5に示します。このような回路を光を遮断した空間に設置して、光子を一個一個その中へ導いて符号化・復号化の操作を行います。APD0, APD1, APD2と書いている3つの光子検出器のどれに光子が出たかによって0, 1, 2のどれだったかを判定します。0, 1, 2のそれぞれについて平均10万回以上、符号化・復号化操作を実行して、その統計データから、伝送された情報量を評価します。

図5. 偏光-パルス位置変調符号に対する実際の回路構成図。
図6に、最終的な実験データを示します。縦軸が
を表し、横軸のoffset angleとは、復号回路のあるパラメータ(信号ベクトルと測定ベクトルの相対角)を表しています。水平の破線が従来の限界 C1 の理論値で、黒の角印が実験データです。水平の破線の上に飛び出た部分が
> C1 という超加法的量子符号化利得の実験的証拠になります。
2C1 = 1.2908 ビットを超えて C2 = 1.312 ± 0.005 ビットの情報が復号されたことが明確に示されています。実線が理論値です。実験値との差は、光学素子や回路の調整限界からくる不完全さのためです。このように、不確定性原理が支配する通信路では、量子計算を適切に用いた復号を行うことで、通信帯域の増加とともに取り出せる情報量を超加法的に増やせることが実証されました。

図6. 実験データ。
縦軸:光子の各自由度あたり伝送された情報量。
横軸:offset angle(信号ベクトルと測定ベクトルの相対角)。
<意義>
本研究成果は、量子力学と情報科学を結びつける上で、重要な基礎科学的意義を持っています。量子力学においては、古典力学にはない新しい現象として、量子もつれという相関の重要性がその誕生当時の20世紀初頭からすでに認識されていました。一方、情報科学は、20世紀半ばにシャノンが通信路容量という概念を導入して、通信理論を定式化することによって急速に発展しました。
超加法的量子符号化利得は、この量子もつれ現象と通信路容量を結びつけることで初めて生まれる概念です。この効果を実験的に検証するということは、20世紀に誕生した2つの基礎科学、量子力学と情報科学を融合してゆく上で、避けては通れない通過点になります。我々の成果によって、量子もつれに対する新しい情報理論的意義が実験的に裏付けられ、同時に、通信路容量の量子力学的拡張の実験的基礎も与えられたことになります。
一方、実用的には、情報需要の爆発的増加の中で、近い将来明確な性能限界に突き当たる従来の光通信技術にかわって、新しい通信の原理を示す成果として期待されます。技術形態としては、信号を復号する際に量子計算の原理を使うもので、その核心的部分は受信側にあり、送信側では従来の光通信技術をそのまま生かす形態になります。
その際、受信側で使う量子計算は少数のビットを扱う小規模のものでも、十分な技術的意義を持ちます。つまり、従来の復号回路の中に小規模量子計算回路を組み込むことで、従来の通信性能を確実に改善してゆくことが可能です。
これは、超高速計算技術として期待される量子計算が、本来、大きな規模で動作させて初めてその威力を発揮できるのとは対照的で、量子計算の通信における新しい応用を示すものでもあります。この意味で、我々の成果は、従来の光通信技術から最も自然な形で量子情報通信技術へ移行してゆく通過点に位置しているわけです。
<今後の展開>
今回の我々の実験では、光子の偏光と空間自由度を変調して信号を伝送しています。これは原理実証としては十分ですが、実際の伝送路では外乱に弱いため、実用的にはあまり適していません。実際の通信に適した方式は、多くの光子が一つの波として束になったコヒーレント光と呼ばれる状態を変調する方式です。
したがって、超加法的量子符号化利得も、いずれはコヒーレント光信号に対して実現する必要があります。しかし、残念ながらコヒーレント光信号の間で量子計算を実行するのは、極めて難しい課題であり、多くの基盤技術が熟して初めて現実になる目標です。実用化にはまだまだ多くの基礎研究が必要なわけです。
我々が最初の原理実証として、光子の偏光と空間自由度を用いた理由は、これが現在の技術を使って最も正確な量子計算を実行できる唯一の物理系だからです。今後は、コヒーレント光信号の間で量子計算を実行するための基礎研究に着手してゆきます。微弱なコヒーレント光信号での量子計算が可能になれば、1ビット当たり平均1個に満たない光子のエネルギーでも、信頼性の高い情報伝送を実現することが論理的に可能です。
具体的には、2つの方向から研究に取り組んでゆく計画です。一つの方向は、高精度の光子検出器と低雑音光源と高速の電子制御技術を組み合わせて量子計算を実行する方法です。この方法では処理速度はある程度犠牲になりますが、5年程度で現在の技術を凌駕する最初の基本モデルを実現できると期待されます。もう一つの方向は、集積化が可能な固体化素子で光の量子計算を実現する方向です。まずは、微弱な光信号に対しても大きな非線形効果を引き起こせる物理機構を探索してゆく必要があります。
[出典]
1.佐々木、武岡:通信路符号化, 通信総合研究所量子情報技術グループ(2003-5)
[http://www2.crl.go.jp/ks/d313/index.html]
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