[QIC003:量子コンピュータ] (2003/06/30:渚 博)
情報通信においては送受信する情報の処理を行う端末装置が必要になります。古典情報通信では端末装置としてコンピュータが一般的に用いられます。同様に、量子情報通信では量子情報処理を行う量子コンピュータが必要になると思われます。
量子計算の基本となる情報量を量子ビット、またはqubitと言います。通常のビットが0または1しか保持できないのに対し、量子ビットは0と1の任意の重ね合わせを保持できます。重ね合わせとは、0を表す状態ベクトルを
、1を表す状態ベクトルを
と表記するとき、
という形に表される任意のベクトルのことを言います。ただし、αとβは、
という条件を満たす複素数です。
重ね合わせ状態αv0+βv1にある量子ビットを観測すると、確率
で0が、確率
で1が読めると約束します。また、0または1が読めたときには、重ね合わせ状態
は
または
で表される状態に収縮するものとします。なお、複数qubitに対応する状態ベクトルについては、例えば、00に対応する状態を
などと表すものとします。
Deutschによって導入された量子Turingマシン(以下QTMと略す)は、通常のTuringマシンと同様に、有限制御部、テープ、ヘッドから成ります。通常のTuringマシンのテープの1マスには、0または1の一つの記号が書き込めますが、QTMのテープの1マスには、0と1の任意の重ね合わせが書き込めます。つまり、テープの1マスは1qubitの情報を保持できます。
QTMの動作は、このようなテープの各マス目に保持された重ね合わせ状態に対する、ユニタリ変換と呼ばれる線形変換の適用の系列として表現されます。一般に、ユニタリ変換は、あるユニタリ行列によって表現されます。
ここで、行列Aがユニタリであるとは、A†をAの転置共役行列、Iを単位行列とするとき、A†A=AA†=Iが成り立つときを言います。このQTMが量子コンピュータのモデルですが、QTMは、以下に述べるような量子回路により実現可能であることが知られています。
一般に、電気回路は多数の論理ゲートから構成されています。通常のコンピュータを実現するのに用いられている論理ゲートとしては、AND、OR、NOTゲートなどがあります。例えば、ANDとNOTまたはORとNOTの2種類のゲートを用いれば、任意のTuringマシンの計算を模倣する回路を構成することができます。実際、現在のコンピュータはこのような回路から構成されています。
一方、量子計算は量子ビットに適用されるユニタリ変換の系列で表現されます。DeutschやYaoらの研究によって、QTMの動作は量子回路で模倣できることが分かっています。量子回路を実現するための量子論理ゲートとして、以下のようなものが考案されています。なお、量子論理ゲートの各入出力は、一つの量子ビットに対応しています。
(1)制御NOTゲート
図1(a)に示すように、このゲートは2入力2出力です。制御NOTゲートにおいては、入力の第1ビットx1の値が0ならば、入力の第2ビットx2の値がそのまま出力の第2ビットy2の値となりますが、x1の値が1ならば、x2の値が反転された値がy2の値となります。すなわち、x1=1のときには、x2の否定がy2に代入されます。なお、いずれの場合においても、y1=x1です。
図1 量子論理ゲート
制御NOTゲートは、以下のような4次の正方行列で表現される、2量子ビットに対するユニタリ変換を実行します。

ここで、この行列の各行各列は、それぞれ順に、
、
、
、
という状態に対応しています。例えば、上の行列の第3行は
という状態に対応し、第4列は
という状態に対応しますが、その第3行第4列成分が1であることは、以下のことを表しています。制御NOTゲートへの入力がx1=1、x2=0である場合には、その出力はy1=1、y2=1となります。
(2)ユニタリ変換ゲート
このゲートは1入力1出力であり、入力に対して指定されたユニタリ変換Uを行います。ただし、このユニタリ変換は、行列式が1であるような、2行2列のユニタリ行列で表現されるものです。ユニタリ変換ゲートの具体例としては、以下に示すHadamardゲートHを参照して下さい。
回路に含まれるゲートの個数を、その回路のサイズと言います。例えば、1つの制御NOTゲートのみからなる2入力2出力の量子回路は、上述の4×4ユニタリ行列によって表現され、そのサイズは1です。
通常のブール回路においては、AND、OR、NOTの3種類のゲートがあれば、任意のブール関数を計算する回路を構成することができます。このような性質があるため、ゲートの集合{AND,OR,NOT}は万能基底と呼ばれます。量子回路に対しては、次のような万能基底が知られています。
(3)無限基底
制御NOTゲートと、すべての1qubitユニタリ変換ゲートからなるゲートの無限集合GUは万能基底です。任意のk qubitユニタリ作用素を、GUに属するO (4kk)個のゲートを用いて正確に模倣できることが知られています。
従って、GUから、局所的ユニタリ変換ゲートからなる別の万能基底(3 qubitゲート全体の集合など)に切り替えても、対応する回路サイズは定数倍にしか増加しません。
(4)有限基底
任意の2 qubitゲートは、Hadamardゲート
H = ![]()
と、2 qubitゲートである制御Vゲート、ただし、
V =
を、合計でO (logc(1/ε))(c:定数)個用いて、与えられた近似率εで近似できることが知られています。従って、これら2つのゲートを含む集合は、任意のゲートを近似できるという意味において万能基底です。
量子計算機を物理系で実現するためには、次の3つの概念が重要になります。まず第一がqubitの位相緩和時間(デコヒーレンス時間)です。あるqubit
を表す式
=cosθ
+sinθeiα
における位相項αは、時間とともに乱雑な値へと緩和し、量子干渉効果はもはや現れなくなります。
従って、計算は位相緩和時間内に終了する必要があります。位相緩和の原因としては、qubitを担う系が外部自由度と十分に隔離されていないために起こる場合と、系をコントロールする外場などを十分に安定に制御することができないために起こるものとに大別できます。
第2はゲート時間です。これは一度のゲート操作に必要とする時間で、実行可能な量子計算アルゴリズムのステップ数は、位相緩和時間をゲート時間で割ったものになります。
第3は系の拡張のしやすさです。実際に多qubitの量子計算機の実現を目指すためには、qubit数を増やした場合に、位相緩和時間などのパラメータや、実際の装置の複雑さなどがどの程度増大するかが重要になります。
(1)量子井戸による実現提案
Barencoらは、結合した量子井戸を用いた量子論理ゲートを提案しました。量子井戸とは、エネルギーギャップの異なる半導体を積層して作り出された、ポテンシャルの低い領域のことです。
量子井戸中の電子状態は、位相緩和時間が一般的に短いという欠点がありますが、この提案はシンプルで、論理ゲートを構築するポイントを理解するのに適しています。電子の運動エネルギーが小さいと電子の波動関数は井戸内に局在します。
今、図2(a)のような、幅の異なる2つの量子井戸が隣り合った系を考えます。それぞれの井戸に置ける電子状態を
、
、その基底状態を
、
、第一励起状態を
、
とすると、エネルギー準位は図2(b)のようになります。
図2 非対称量子井戸とエネルギー準位
このとき、
と
のエネルギー差ћωbに相当する電磁波をある一定の時間照射すれば、
の状態を
から
、またはその逆へと入れ替えることができます。これは、回転ゲートの動作です。しかし、このままでは
の状態に応じて
の状態を変化させる、制御NOTの動作を実現することはできません。
今、量子井戸に電圧を印加すると、量子閉じこめStark効果により、基底状態と第一励起状態の波動関数は、図2(c)に示すようにそれぞれ反対方向に偏り、結果それぞれ逆向きの電気双極子を持ちます。
このような量子井戸が隣接して存在すると、この電気双極子間の相互作用により、双極子の向きが互いに逆の![]()
、![]()
は、互いに同方向の![]()
、![]()
に比べてエネルギーが小さくなります。
このため、![]()
のエネルギー準位は図2(d)のようになり、![]()
⇔![]()
間のエネルギー差ћωb'は、![]()
⇔![]()
間のエネルギー差ћωb''に比べて大きくなります。それ故、周波数ωb'の電磁波を入射することによって、
が
の状態の時のみ、
の状態を選択的に反転させることが可能になります。
このように、制御NOTを実現するためには、qubitを担う状態間に何らかの強い非線形相互作用が生じるような物理系を設計する必要があります。
(2)イオントラップ量子計算機
CiracとZollerは、冷却イオントラップ中のイオンを、外部からレーザによって操作することで、量子計算を行うアイデアを提案しました。このタイプの量子計算機は、qubitの位相緩和時間が長く、qubitに施す演算回数を大きくとることができるため、提案の中でも有望な方法の1つであると考えられています。
図3(a)が、実験のイメージです。N個のイオンが直線上トラップに捕らえられており、それぞれのイオンは異なるレーザービームと相互作用しています。各イオンは、その重心運動の量子化準位(フォノン)が十分に分離できる程度にまで冷却されています。
図3 冷却イオントラップによる量子計算
qubitの固有状態としては、それぞれのイオンの基底状態
と励起状態
を用います。ここで、mはイオンの番号です。これらの状態間は、右偏光のレーザ光によって互いに入れ替えることができます。また、左偏光の励起に対応する
という状態も別に存在します。また、補助用のqubitとして、フォノンモード(基底状態
と第一励起状態
)を用います。
各qubit間の操作は、このフォノンの状態を媒介として行うことができます。制御には、
と
のエネルギー差よりもちょうどフォノンのエネルギー分だけ少ない波長のレーザー光を用います。レーザー光の照射時間を調整することで、
![]()
⇔ ![]()
という操作を行うことができます。これをπパルスと呼びます。このとき、位相にiがつきます。左偏光のレーザー光を用いた場合には、![]()
⇔ ![]()
間で操作ができます。また、レーザー光の照射時間を倍にすると、元の状態に戻りますが、位相に−がつきます。このようなパルスを2πパルスと呼びます。
m番とn番のイオン間の制御NOT操作は、次のようにして行われます。初め、フォノンモードは
にあるとします。まず、右偏光のパルスをm番のイオンに照射します。これにより、m番のイオンが![]()
の状態にあるときのみ、i![]()
へと変化し、![]()
の場合にはそのままで変化しません。
次に、左偏光の2πパルスをn番のイオンに照射します。すると、n番のイオンが
にあり、またフォノンのモードが
であるときのみ、位相に−がついた元の状態になり、他は影響を受けません。最後に右偏光のπパルスをm番のイオンに入射します。この場合、![]()
である状態はそれぞれ位相因子iがかかった![]()
へと変化します。この様子を図3(b)に示しています。これから分かるように、結局![]()
の状態だけに位相因子 − が付くことが分かります。
このように、位相因子に − を付けることができれば、制御NOT操作を行うことができます。例えば、
=
±
という置き換えをすることで、一連の操作により
![]()
→![]()
、![]()
→![]()
![]()
となり、これは制御NOTになっています。
この提案については、イオンの個数を増やした場合のデコヒーレンスの影響なども理論的に調べられています。1995年には、単一のイオンと量子化された重心運動をそれぞれqubitとして、制御NOTの実験が行われています。
(3)シリコン中のイオンの核スピンによる量子計算機
1998年に入って、シリコン中のイオンの核スピンをqubitとして用いる方法が提案されました。図4に構造を示します。磁性不純物のないシリコン中にドープされた31Pイオンの核スピンが、qubitとなります。この核スピンは、イオンの周辺に局在する電子のスピンとの相互作用を行っています。
図4 シリコン中のイオンの核スピンによる量子計算機
この相互作用の強さ(A)は、イオン周辺の電子密度に依存しますが、その電子密度は、31Pの上部に位置するA-Gateに電圧を加えることで制御することが可能です。核スピンの状態は、NMRと同様に、外部磁場下でのスピンの歳差運動に共鳴した電磁波を照射することによって制御されます。
共鳴周波数はAに依存するので、A-Gateの電圧を調整することで、どの核スピンを操作するかを選択することができます。このようにして、あるqubitに対する回転ゲートを実現できます。
一方、制御NOTの原理は次のようなものです。31Pイオンに局在する電子は数10nmに広がって局在しており、隣接するイオンの核スピン同士は、この電子を媒介として相互作用することができます。この核スピン間相互作用は、隣接するイオンの間に設けられたJ-Gateに電圧を印加して、局在電子の広がりを変えることで制御することができます。
この核スピン間相互作用に応じた電磁波を照射することで、一方の核スピンが上向きのときのみ、もう一方の核スピンを回転させる、つまり制御NOT動作を行うことができます。
実際には、シリコン中の磁性不純物の完全な消去、シリコン中の正確な位置に単一の31Pイオンをドープする方法、0.05μm程度での微細加工技術など、実現に当たっての課題は多いです。しかし、この方法は、核スピンを用いるため位相緩和時間が最大106 sと長く、また核スピン間の相互作用を電気的に制御可能であり、また、微細構造として作用するため、qubitの数が増大した場合も装置が複雑にならなくて済むなどの利点があります。
(4)単一光子量子ロジック
光子は長い距離を位相緩和なしに伝搬することが可能であり、qubitとして有力な候補です。しかし、実際に量子ロジックゲートの構築に当たっては、その単一光子の状態を別の単一光子の状態で制御しなければならず、そのためには巨大な非線形性を必要とします。
1995年にTurchetteらは、図5のような装置を用いて、単一光子で別の単一光子の位相を変調することに成功しています。実験では、ほぼ全反射に近い2つのミラー(透過率は10-4〜10-6)でマイクロキャビティを構成し、その中にセシウム原子を1原子ずつ導入します。
図5 キャビティティ内の原子と相互作用する光子対
ミラー間で反射を繰り返しながら、光子はマイクロキャビティの内部に長くとどまることができ、結果として光子と原子は強い相互作用を行います。
この場合のqubitは、セシウム原子の微細構造準位の2状態です。基底状態
からは、右偏光と左偏光でそれぞれ異なる状態へと遷移が可能ですが、右偏光に対する遷移確率の方が十分大きいのです。このため、左偏光を入射した場合は光子と原子はほとんど相互作用を行いません。右偏光の光子を
、左偏光の光子を
とし、添え字a、bでそれぞれ最初に入射する光子、次に入射する光子を表すと、以下のような位相シフトが起こります。
![]()
→ ![]()
![]()
![]()
→ eiφa![]()
![]()
→ eiφa![]()
![]()
![]()
→ ei(φa+φb+δ)![]()
![]()
この実験では、φa、φb、δの値としてそれぞれ17.5°、12.5°、16°の値が得られています。このδの値が180°に達すれば、イオントラップの場合と同様にして、制御NOTを実現することができます。
[出典]
1.西野:量子計算論の現状、量子情報科学とその展開(別冊・数理科学)、サイエンス社(2003-4)
2.竹内:量子計算の実験、量子情報科学とその展開(別冊・数理科学)、サイエンス社(2003-4)
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